HUGっと!プリキュア #11「私がなりたいプリキュア!響け!メロディーソード!」誰かに求められ肯定されることが癒しとなり救いとなる。




他人との比較、何も出来ず何も持たない自分に対して抱いてしまう劣等感。自己否定に走り精神的に摩耗し追い詰められるはなとチャラリートを重ねる作劇が秀逸であり、自分に重なる境遇を持つはなだから持ち得る共感。弱さを自覚し他人の痛みを理解出来るはなだから示すことができる希望と救いの道筋。それを以て「私がなりたいプリキュア像」とする話運びが巧みで圧倒されてしまう。
本編でも演奏が例え話として引き合いに出されていたが、全てが一定では楽曲としては成り立たない。強弱高低があるから違いが際立ち、単体では成し得ない深く重層的な音色を生み出す。人間社会だって多様性を持つ人々が、様々な分野で個々の能力を発揮しているから高度な文明として成り立っている。違うから成り立つものっていうのはあるものだ。
ただ、人間って弱くて脆い生き物でもあるからして。一口に個性や自分らしさと言っても派手で周囲から称賛されるものもあれば、地味かつ控え目なもので一見すると分かりにくいものもある。自分の良さは自分では気がつきにくいと申しますが、誰からも顧みられることなく見て貰えないと感じれば、不安に駆られ自分が見えなくなってしまうこともあるだろう。
違うから不安になる。でも、同時に違うから与えられる癒やしや安心感もあるんだよね。他の人が居て差異があるから自己は確立される。自分らしさや個性は自己だけでなく他者の存在と違いによって生じ、それが観測されることで初めて成立する。だからこそ自分にとって身近な人。家族や仲間、今回で言えば同僚の存在ってとても大きくて、彼ら彼女らからの承認や肯定ってとても大事なんだなぁと思える。
プリキュアであってもはなは年相応の弱さを持つ普通の女の子だ。でも、弱いから親の愛を素直に受け止めることが出来る。弱さを自覚してるから仲間を大切に出来る。弱さに惑い傷つく人の心の脆さを知っているから、同じ弱さを持つ敵に共感することが出来る。それは強く華々しい才を持つ者では持ち得ない。弱さを持つが故のとてつもない可能性を感じられるところでもあった。
弱くて目立たなくて誰にも見向きもされない。そんな相手に対しても、同じ視点を持つはなだから目を向けられる。強者の立場から正義の剣で一方的に断罪するのではなく、誰にでも花咲ける場所はあるのだと包みこんであげられる。だからそこを探して前を向こうという思想。弱さを持つが故に視点、承認、肯定。そこに起因した要素と実際の行動が伴うから、はなの語る自分らしさに説得力も伴うよなぁと。
その人にしか出来ない役回り。弱いから、特別でないからこそ出来ること。癒しとなり救いとなれることもある事実。さあややほまれではなく、今のはなだから出来る役回り。それを感じられたのが嬉しい回でありました。自分を見てくれる人が居てくれるから頑張れる。認めてくれる人が居るから輝ける。ユリパワワとママみの有り難さが身に染みる。メッセージ性に富んだはなちゃん復活回でありました。


留まるところを知らず無限に膨らみ続けるキュアエールの母性。唯一人チャラリートさんの苦しみに気付いたエールの選択。必要なのは剣じゃない。一方的な断罪ではなく癒しと救いの手を差し伸べる。自らの行動でこれが私の応援、私のなりたいプリキュアというスタイルを体現してくれているのが本当良いね。この辺りは本作ならではの話の持って行き方だなと強く感じるところでもある。
新必殺技のトリニティコンサートに関しては、凄いスイプリ感があったところだけど、今回サブタイからしてもう完全に意識してるところあると思うので。


チャラリートさんの悲痛な叫び。大人になれば何者かになれると漠然と思いつつ、実際体だけは大きくなって大人になっても何者にもなれていない自分と重なるところありすぎて胸を抉られる。というかチャラリートさん程にも何も持っていないから涙が止まらない。だから、自分も癒しと救いを求めてプリキュアを見てるんだ…。浄化されたチャラリートさんが発した万感の思いが込められた一言に、心底同意せざるを得ない日曜朝の出来事なのでした。
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